▼光明寺 〔浄土宗〕
仁明天皇の承和年間(834年~847年)、慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)によって草創されたと言われています。
創建当時天台宗の寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
▼水軍たちの心のよりどころ
翌年の建武4年(1337年)には、紀州藩雑賀庄海龍寺の僧弘阿和尚によって宗祖法然上人の「御影(法然上人画像:県重要文化財)」が施入され、名実ともに浄土宗の念仏道場として栄え、多くの末寺を有しました。
室町時代には、瀬戸内海村上水軍の将、宮地一族の帰依を受け、宮地明光の次男で向島余崎城主であった島居次郎資長は、彼の船中念持仏千手観音(別名:浪分観音(重要文化財))を当寺に寄進し外護につとめるなど、瀬戸内海の水軍たちの心のよりどころとして信仰を集めていました。
▼尾道の豪商たちの外護
安土桃山時代には、中国地方の覇者毛利氏の信仰も篤く、毛利輝元は広島退城の際に当寺の一空和尚を伴って萩へ移っています。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」とともに瀬戸内海水軍の将たちの中には武士を捨て商人となり、回漕を業として海運問屋を営んでいました。
光明寺の檀家となった「唐津屋」「大紺屋」「住屋」「大栗原屋」「鰯屋」など、江戸時代の尾道における政治や経済を動かした豪商たちの外護によって今に至っています。
*本章の光明寺の解説はオフィシャルサイトより転載しています。
▼「負けず屋」陣幕 久五郎の墓
尾道ゆかりの第12代横綱・陣幕久五郎(じんまく きゅうごろう)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身の大相撲元横綱です。
生涯通算幕内成績:87勝5敗17分3預65休 勝率 9割4分6厘という圧倒的な成績を残し「負けず屋」と言われた強豪でした。明治維新の後に大阪頭取総長となり横綱の代数を創案しました。陣幕横綱の墓は、光明寺の他に東京都品川区の光取寺にもあります。
光明寺の地図とデータ
名 称:光明寺(こうみょうじ)
住 所:〒722-0033 広島県尾道市東土堂町2-9
w e b:https://www.onomichi-komyoji.com/
電 話: 0848-22-7269
営業時間:9:00~17:00