文学のこみち(ぶんかくのこみち) Path of Literature

文学のこみちPath of Literature

▼全長約1kmに25基の文学石碑が点在

千光寺山頂から、千白稲荷まで続く全長約1kmの遊歩道で、道沿いの自然の巨石に尾道ゆかりの作家・詩人による作品を刻んだ25基の石碑が立っています。

1965年(昭和40年)と1969年(昭和44年)の2期にわたって尾道青年会議所が整備し、尾道市に寄付したものです。尾道を訪れた文人墨客の詩歌を頂上一帯の松蔭に苔むす自然の岩に刻んだ文学の散歩道、自然歩道となっています。

彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。この道を下ると千光寺の大師堂側にたどり着きます。


文学のこみち(ぶんかくのこみち) Path of Literature

▼文学のこみち作家一覧

徳富蘇峰、前田曙山、正岡子規、物外、十返舎一九、金田一京助、江見水蔭、志賀直哉、林芙美子、緒方洪庵、巌谷小波、山口玄洞、山口誓子、柳原白蓮、河東碧梧桐、竹田・竹下・伯秀、松尾芭蕉、中村憲吉、俚謡、吉井勇、古歌、小杉放庵、菅茶山、陣幕久五郎、頼山陽(敬称略)

徳冨 蘇峯(とくとみ そほう)

海色山光信に美なるかな
更に懐う頼子の出群の才を
淋離たる大筆精忠の気
維新の偉業を振起して来たる

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。

前田 曙山(まえだ しょざん)

浜焼きをむしりつつ
春惜しむな里

前田 曙山(まえだ しょざん、1872年1月1日 - 1941年2月8日)は、日本の小説家である。本名の前田 次郎(-じろう)、前田 曙山人(-しょさんじん)の名でも著作を発表している。

正岡 子規(まさおか しき)

のどかさや
小山つづきに塔二つ

正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。

物外(もつがい)

あれは伊予
こちらは備後
春の風

武田 物外(たけだ もつがい、 寛政7年(1795年)3月 - 慶応3年11月25日(1867年12月20日))は幕末の曹洞宗の僧侶、武術家。「拳骨和尚」の名で知られる。不遷流柔術の開祖。

十辺舎 一九(じゅっぺんしゃいっく)

日のかげは青海原を照らしつつ
光る孔雀の尾の道の沖

十返舎 一九(じっぺんしゃいっく、明和2年(1765年) - 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。『東海道中膝栗毛』の作者として知られています。

金田一 京助(きんだいちきょうすけ)

かげともの をのみちの
やどの こよなきに
たびのつかれを
わすれて いこへり

金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者、民族学者。

江見 水蔭(えみ すいいん)

覚えきれぬ
島々の名や夏がすみ

江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、岡山市生まれの小説家、翻訳家、編集者、冒険家。

志賀 直哉(しがなおや)

六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。其頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。それがピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す。

志賀 直哉(しが なおや、1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとりで「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えました。

林 芙美子(はやし ふみこ)

海が見えた。海が見える。
五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。(放浪記より)

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。

緒方 洪庵(おがた こうあん)

軒しげくたてる家居よ
あしびきの
山のおのみち道せまきまで

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は、江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者。

巌谷 小波(いわや さざなみ)

大屋根は みな寺にして 風薫る

巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。

山口 玄洞(やまぐち げんどう)

明徳を明らかにす

山口 玄洞(やまぐち げんどう、文久3年10月10日(1863年11月20日) - 昭和12年(1937年)1月10日)は、日本の実業家、帝国議会議員。

山口 誓子(やまぐち せいし)

寒暁に鳴る指弾せしかの鐘か

山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月3日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、京都府出身の俳人。

柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん)

ちち母の声かときこゆ瀬戸海に
み寺の鐘のなりひびくとき

柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日 - 1967年(昭和42年)2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。

河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう)

瘞紅の碑
あるあり
四山眠れるに

河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。

田能村竹田、橋本竹下、亀山伯秀(ちくでん・ちっか・はくしゅう)

瘞紅 ( えいこう ) の碑
江戸時代後期の当主橋本竹下の時代には、頼山陽、田能村竹田、本因坊秀策らが訪れ、交流の証として多くの書画などが残っています。また、天保5年(1834)に田能村竹田や亀山伯秀らが訪れた際に千光寺山に登り、詩を詠んで楽しみ、それを刻んだ石碑を建て、瘞紅 ( えいこう ) の碑と名付けます。こうした豪商たちの別荘は、尾道では茶園(さえん)と呼ばれ、千光寺山斜面地や街中につくられ、多くの文人たちが訪れ交流する場所となりました。

田能村 竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日(1777年7月14日) - 天保6年8月29日(1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画(文人画)家。

橋本竹下(はしもと ちっか、寛政二年1790年~文久二年1862年)江戸時代の尾道の豪商で、多くの文人墨客と交流し支援、尾道の発展にも尽くした文化人。

松尾 芭蕉(まつお ばしょう)

うきわれを 寂しがらせよ 閑古鳥

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。

中村 憲吉(なかむら けんきち)

千光寺に 夜もすがらなる 時の鐘
耳にまぢかく 寝ねがてにける

中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1934年5月5日)は、広島県生まれの歌人。

俚謡(りよう)

音に名高い千光寺の鐘は
一里聞えて二里ひびく

いつの頃、誰が作ったともわからないが、みなと尾道でうたわれつづけてきた俚謡(りよう=民謡)の一つである。千光寺の時の鐘は尾道に生れ育ったものにとってはどこにいても忘れられないものといわれる。沖合遥に働いていた船人もこの鐘の音を聞いて港に急いでいたことであろう。

吉井 勇(よしい いさむ)

千光寺の御堂へのぼる石段は
わが旅よりも長かりしかな

吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は、大正期・昭和期の著作家、歌人、脚本家。

古歌(こか)

ぬばたまの夜は明
ぬらし玉の浦に
あさりする鶴鳴き渡るなり

古歌とは、作者の名も伝わらない昔の人が作った古い歌。この古歌は、玉の浦すなわち、尾道のみなとを歌った古歌として、ふるくから人々の間に愛誦されています。

小杉 放庵(こすぎ ほうあん)

岩のまに
古きほとけのすみたまふ
千光寺山かすみたりけり

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。

菅 茶山(かん ちゃざん)

鳴椰漸く遠く夕陽沈む
水波始めて怡にして山影深し
山は皆珍松奇石を雑う
人は龍鱗を撫で虎額を踏む
此の石鼓々と踏めば声有り

菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日)- 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。

陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう)

うけながら風の押す手を柳かな

陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日(1829年6月4日) - 明治36年(1903年)10月21日)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身の元大相撲力士。

頼 山陽(らい さんよう)

磐石坐す可く松拠る可し
松翠缺くる処海光露わる
六年重ねて来たる千光寺
山紫水明指顧に在り
萬瓦半ば暗くして帆影斜なり
相傳う残杯未だ傾け去らず
首を回らして苦に諸少年に嘱す
記取せよ先生曽て酔いし処と

頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。


文学のこみちの地図とデータ

名 称:文学のこみち(ぶんかくのこみち)

住 所:広島県尾道市東土堂町(千光寺公園内)

w e b:https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/site/onomichikanko/1239.html

電 話: TEL:0848-38-9184(尾道市観光課)


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